『地球に落ちて来た男』が悲しいのは、主人公が歳をとらないからだ。実際には地球人よりはるかに遅く歳をとるという設定なのだが、とにかく映画の中のデヴィッド・ボウイは見事に歳をとらない。周りだけが変わって行く。その後に作られた『ハンガー』のバンパイヤ役も同様。あらゆるものの変化を見ることはできるがそれを止めることはできない不老ゆえの憂鬱が、映画全体を覆っていく。
しかもそのことが映画の中だけではなく、現実のデヴィッド・ボウイに重ねられる。原作があるにもかかわらず、あらかじめデヴィッド・ボウイという人がいたからこそ作られ得た映画なのではないかと思えるような、そんな時間と動機の倒錯の中に世界中の観客たちを巻き込んだ上でのこの憂鬱。古い音楽ばかりが流れる。それは単に懐メロとしてではなく、不老のまま未来をも生き抜く遥か未来の誰かが聞いた懐メロのように、過去からではなく未来から聞こえてくる。不老のボウイが主人公として、そしてそれゆえに限りなく本人に近い誰かとしてそこにいるがゆえに、あらゆる時間と空間が歪む。
デヴィッド・ボウイは自ら新しい何かを創造するというより、時間の流れや空間の広がりを捻じ曲げ貫き結びつけることで思わぬ何かと何かを出会わせてきた。そんな人だったと思う。日々更新され続ける永遠の「ヤング・アメリカンズ」なのだ。だから、『地球に落ちて来た男』の中で流れるロイ・オービソンの「ブルー・バイユー」やアーティ・ショウ「スターダスト」といった名曲は、デヴィッド・ボウイが彼らに作らせた曲のようにも感じる。あらゆる時代、あらゆる場所にボウイがいて、そこにいる誰かと結びつき、そこから何かが生まれる、というわけだ。
そんなボウイのもたらす強くねじれた視線を信じられるかどうか? 本人がこの現実世界にいなくなった今、ただそのことだけが問われているように思う。「ブルー・バイユー」を歌っているのはロイ・オービソンに憑依したデヴィッド・ボウイである。そんな視線でこの映画を見ると、語られているのとはまったく別の物語が見えてくるのではないか? この映画には現実のデヴィッド・ボウイの歌は一切使われていないが、しかしデヴィッド・ボウイの音楽にあふれているのだ。
そしてここにきてまるでアメリカの「現在」そのもののようにも見えてくるこの映画のアメリカと現実のアメリカを、そのねじれた視線で幻視する、そんな力技が求められているのだと思う。これは過去に作られた映画かもしれないが、まさに未来に向けて、そして未来の視線によって、いつかくるだろうその日のために作られた映画でもある。わたしたちはそれが今であることを知っている。
この映画にはデヴィッド・ボウイの音楽が溢れている
樋口泰人(boid主宰)
−−第45代アメリカ大統領が選出された日に−−
−−第45代アメリカ大統領が選出された日に−−
















