・当記事はアフィリエイト広告を利用したプロモーションを含みます。

もんじゃ焼きはお好み焼きのルーツ、文字焼きが東京のソウルフードに

スポンサーリンク

もんじゃ焼きの歴史はお好み焼きよりも古い!

もんじゃ焼きの発祥は東京の下町です。

お好み焼きの発祥地、よく知られている通り、大阪からですから、そんな遠いところの関係はどうなっているのか気になりますね。

実際に、たこ焼きボーイは浅草近くの店でもんじゃ焼きを食べて感動しました。

さて、もんじゃ焼きの「もんじゃ」、この変わった名前はどこからきているのでしょうか、その由来があります。

それは、江戸時代末期から明治にかけての頃になります。

東京の下町で、子供たちが、粉を出汁で溶いで、その生地を鉄板に広げ、そこに文字を書いて覚えながら食べていた、という話が伝わっています。

それがもんじゃ焼きの元になった、文字(もんじ)焼きだと言われました。

もんじゃ焼きのふるさと東京月島

東京の隅田川河口にある中州の埋立地、いわゆる月島です。

ここを訪れて、ここが下町なんだとわかる雰囲気を醸し出していますね。

この月島で、江戸末期から明治にかけて、駄菓子屋に集まった子供たちに、鉄板の焼台に、小麦粉を溶いて薄く焼いて、それに醤油や蜜をつけて食べさせた、これがもんじゃ焼きだという風に伝わっているのです。

こういった話を聞くたびに感動してしまいますね。

さて、もんじゃ焼の醍醐味といえば食感です。

小麦粉を溶かす出汁の量が多いので、鉄板の上であの独特のパリパリ感が生まれるんですね。

押さえつけていないところはトロっとした食感が残っているので、異なる食感が楽しめるというわけです。

江戸に月島が生まれた歴史

ちょっと、もんじゃ焼きとは話が逸れてしまって申し訳ないのですが、月島ってどういう場所なんでしょう。

東京以外に人にとって、東京の下町、と言われても、なぜかピンとこない。寅さんのことしか思い浮かばないのは、僕だけじゃないでしょう

現在、月島は東京の中央区で、海からは遠く離れていますが、なぜか下町と呼ばれています。

それは、月島が生まれた歴史に関係があります。

実は、月島そのものは幕末までは、隅田川の河口にたまる砂と小石に過ぎなかった存在でした。

幕末から明治時代の初めにかけては、隅田川の火口には、佃島と石川島という2つの小さな島があったそうです。

その島の間に、川から運ばれてきた砂と小石が堆積し、砂嘴(さし)と呼ばれる、海中に細長くできる砂の陸地ができていくんですね。

この砂嘴のために、大きな船が通れなくなるので、明治時代の中ごろに、河口付近の川底にたまった砂や小石を取り除いたのです。

その時の砂や小石を佃島の先に埋め立て、新しい島を1891(明治24)年に作ったのです。この時につけた名前が「築島」ですが、後に、築地と区別するために月島に改名されたということなのです。

ということは、月島の歴史は明治時代からなんですね。なんとも、歴史を感じる名前じゃないでしょうか。

日本初のもんじゃ焼き店は「好美屋」

さて、話をもんじゃ焼きに戻しましょう。

当時は、まだ子供の駄菓子だったもんじゃ焼きを、大人が食べるものとして提供したお店は、月島西仲通り商店街の「好美家」だそうです。

大正時代の月島には131件の駄菓子屋があって、そこでは子どもたちが文字焼を楽しんでいたということです。

1940年代になると、お好み焼屋で合わせてもんじゃを出し始めます。そこでは、もんじゃ焼きは、お好み焼きのサイドメニューだったということです。

要するに、お好み焼き屋の鉄板を使って、サイドメニュー的に文字焼を懐かしんで出したのかもしれないそうです。

もんじゃ焼きも専門店で食べたい

戦争直後の東京のもんじゃ焼きは具が少なく、小麦粉の生地が主体だったようです。

それが昭和の後半になって関西でできたお好み焼きの文化と混ざり合うことになり、今のような、キャベツなどが入ったものになって言ったんですね。

子どもが駄菓子屋で食べていた時代から、東京のソウルフードのひとつとなるまで、レシピも工夫されて進化していったもんじゃ焼きです。

次は、東京の月島のもんじゃストリートで本場のもんじゃ焼きを食べに行きたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました