お好み焼きのルーツは古代まで遡れる、庶民に愛されてきた粉もんの定番 | MITU-Screen
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お好み焼きのルーツは古代まで遡れる、庶民に愛されてきた粉もんの定番

お好み焼きといえば、大阪、しかし、広島焼きも捨てたもんじゃないし、三津浜焼きなんていうのもあるぞ。

実はお好み焼きは奥深い食べ物なんです。

なぜなら、日本各地の食べ物と繋がり、お菓子から主食まで巻き込んで発展してきた食べ物だからです。

この記事では、お好み焼きが、誕生して、広まって行き、その結果、大阪や広島のソウルフードへと発展していった歴史を紹介しています。

これを読んだら、たかがお好み焼きなんてもう二度と思わなくなるのではないでしょうか。

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お好み焼きの起源

お好み焼きはいつからあるのでしょう。

もっとも古い原型ともいえそうなのは、煎餅という、小麦粉を水で溶いて平らに焼いた食べ物です。

この煎餅という食べ物は古く、新石器時代から、よく似たものは作られていたと言われています。

このお好み焼きの原型になったと言われる煎餅ですが、中国の煎餅はあくまで小麦粉を水で溶いてクレープ状に焼いて、その中に調理した副菜を包んで食べるといった料理だったのです。

日本に伝えたのは吉備真備

唐で学んできた学者である吉備真備は、課外授業として教室で小麦粉を持ち込んで、長安における粉食文化が盛んなことを教えました。

そして、長安で覚えた煎餅を自ら焼いて学生たちに食べさせたと言われています。

しかし、中国の粉食文化は日本では普及せず、日本では粉食は団子と麺類に傾倒していくことになります。

お好み焼きの生みの親は千利休

室町時代に。茶人である千利休が、「ふの焼き」を茶菓子として用いるようになりました。

このふの焼きは、うどん粉を水と酒でねった生地を薄くのばして焼いて、味噌をぬって丸めたものです。

これが、お好み焼きの原型といわれているそうです。

この「ふの焼き」をもとに、江戸時代末期から明治にかけて、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼」というものが生まれて、屋台などで売られるようになります。

実は、この「助惣焼」は「お好み焼き」と「どら焼き」の二つの起源だとも言われているそうです。

お菓子から主食へ

明治時代になると、東京で「もんじゃ焼き」や「どんどん焼き」が誕生します。

こうなると、お好み焼きはお菓子の域を出て、主食へと変わっていったわけです。

そして、材料は餡よりも野菜が多く使われ、そして、関東大震災の際には主食として広まったと言われています。

お好み焼きは戦後から広まる

戦前に、もんじゃ焼きが人気になり、それに対して、持って帰ることができる「どんどん焼き」が登場しました。

そこに洋食文化であるウスターソースをぬって、「一銭洋食」という名で一世を風靡しました。

一銭洋食は、小麦粉を水で溶いた生地を焼いて、ねぎなどをのせてソースをかけて食べるといったものです。

やがて戦争が終わり、飢餓の中、空腹を乗り切るために、小麦粉にキャベツを混ぜます。

さらにその上に、申し訳程度の豚肉をのせ、呼び名を「一銭洋食」から「お好み焼き」へと変更して、大人の食べ物に変化させます。

ただ、昭和20年初期の頃は、空腹をおさえる手頃な食べ物程度の評価しかなく、ほそぼそと焼かれている存在だったようです。

お好み焼きの地位が確立される

昭和30年代に入って、様々な具材が使われるようになり、お好み焼きは、大人の味覚に応えうる食べ物として圧倒的な支持を得ることになります。

初めは小麦粉とキャベツが主流だった簡素なお好み焼きが、イカやタコの海鮮類、豚肉や牛肉といった様々な食材をお好みで組み合わせるという現在の「お好み焼き」へ変わっていきます。

様々な変化がお好み焼きを変えてきましたが、一家団欒の食事を支えているツールとしてのお好み焼きは変わっていません。

鉄板がホットプレートになって、さらに便利になり、お好み焼きの地位は向上しているのかもしれません。

お好み焼きが戦前に流行らなかったわけ

なぜ戦前にお好み焼きが流行らなかったのでか、考えてみましょう。

実は、お好み焼きが当時の人々に受け入れてもらえなかった要因が考えられます。

それは、お米に対する日本人の思い入れの強さです。

食事はあくまでご飯が中心で、とにかくご飯を食べないと食べた気がしなかったのが戦前の日本人だったようです。

そんな時期に、おかずでもなく主食でもないお好み焼きは、中途半端な、どっちつかずの食べ物だったということです。

広島焼きが広まったわけ

お好み焼きといえば、もう一つ忘れてはならないのが「広島焼き」です。

広島でお好み焼きが広まったきっかけは、昭和25年頃に米軍から払い下げで支給された小麦粉=メリケン粉です。

その小麦粉を水で溶いて薄く延ばして焼いて、その中に観音ネギという広島市観音地区で多く作られる、九条ネギの流れをくむネギをまぶして一緒に焼いたものが始まりです。

ところが、ネギは当時でもまだ高価だったので、その代用品として、安くておいしくて、ボリュームのあるキャベツを使ったのが始まりです。

また、お好み焼の中に、中華麺を入れたので、広島独特のお好み焼きが誕生したということです。

広島では、現在でも、一銭洋食の名残りとも思える、お持ち帰り用のお好み焼きは二つ折りにして、パックに入れてくれます。

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