広島風お好み焼きは一銭洋食から誕生、戦争がもたらした変化とは? | MITU-Screen
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広島風お好み焼きは一銭洋食から誕生、戦争がもたらした変化とは?

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広島風お好み焼きとは

現在、関西風と並んでお好み焼きと言えば、広島風お好み焼きが挙げられますね。

たこ焼きボーイも広島に行ったときは必ず食べたくなります。

実は、広島風は、関西風と焼き方や素材が異なっていて、歴史的にも異なる部分が多くあるんですね。

また、広島風お好み焼き屋の裏には戦争がもたらしたものがあって、それを知ったときはちょっと驚きました。

一銭洋食からお好み焼きへ

広島風お好み焼きのルーツは、大正時代に関西地方、特に京都を中心とした地域で誕生した「一銭洋食」だと言うのが定説になっているようです。

では、一銭洋食とはどういったものだったのでしょう。

一銭洋食は水で溶いた小麦粉を鉄板の上で薄く伸ばして焼いてクレープのようにして、その上にネギや粉がつおといった具を乗せて、半分に折りソースをかけて食べるものです。

主に駄菓子屋で子ども向けのおやつとして販売されていたそうです。広島市内でも昭和初期には「一銭洋食」はあったようですね。

戦争による荒廃と復興

1945年(昭和20年)以降、食べ物を取り巻く状況は大きく変化することになります。

それは、あの8月6日、一発の原爆が投下されたことで広島の街は一瞬にして灰燼に帰してしまいます。

そこで、運良く生き延びた人々も、一日一日を生きるのに懸命でした。

そんな広島では、アメリカ軍の配給で小麦粉が多かったのです。そこで、広島の人々はその小麦粉を食料として活用しようと、かつては子ども向けだった「一銭洋食」を改良したのです。

一銭洋食にキャベツと焼きそば

のせる具に海産物や野菜を加えて、高音のネギの代わりに安いキャベツを入れ、鉄板の上で重ね焼きをしました。

多くは屋台で売られて、腹持ちを良くしようと焼そばを加えたようです。これが、広島風お好み焼きの原型になっていきました。

戦後復興から高度経済成長時代を経て

昭和30年頃には、爆心地に近い新天地広場という、現在の広島市中区新天地、アリスガーデンを中心とした場所にお好み焼き屋などの屋台が50軒程集まっていたそうです。

そこには、戦後の復興に頑張っている広島の人々が集います。

昭和40年以降に治安をまもるため、屋台から集合店舗へと姿を変えていきました。そこが現在の、広島お好み村なんですね。

現在も20数店舗のお好み焼き屋がビルの3フロアに集まっています。

1975年に広島東洋カープがセ・リーグで初優勝し、広島市内のお好み焼き店がテレビに映って注目されたのです。

そして、広島の観光といえば、広島焼き、という風に、旅行ガイドブックにも掲載され、広島のお好み焼きは全国的に知られることになったのです。

おたふくソースで広島焼きが完成

もともと一銭洋食の時代にあったソースはウスターソースで、トンカツソースはまだ発明されていませんでした。

お好み焼きの具材が増え、厚みが増してくると、ウスターソースでは味が足りません。そこでウスターソースを作る際の沈殿物に、コーンスターチでとろみを加えた現在のお好みソースができたのです。

このように、広島のお好み焼きは、時代の流れの中で、広島の復興と発展の歴史を反映したものになっていったんですね。

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